スマホすら持ち込めない全寮制高校を追ったドキュメンタリー映画「聴く隣人のいるところ」監督・早川嗣インタビュー

島根県の山間部に位置する全寮制の「キリスト教愛真高校」(以下、愛真高校)を舞台にしたドキュメンタリー映画「聴く隣人のいるところ」が、2026年6月6日に公開されます。
監督を務めた早川嗣氏は同校の卒業生。東京から公共交通機関で最も時間がかかる駅のひとつ、JR江津駅からすらも徒歩では訪れにくい同校はスマートフォンすら持ち込めない場所です。全寮制かつ少人数の高校では、いったい何が育まれているのか、そして監督自身にとって愛真高校とはどんな場所だったのか、詳しくお話を伺いました。
<目次>
懐かしい学び舎 聴く場を記録したかった

──まず、映画を撮ることになったきっかけを教えてください。
私自身が愛真高校の16期生で、卒業から20年ほどが経ちます。実は妻とも愛真高校で出会っていて、思い入れのある場所です。私が3年生のとき、妻は1年生でした。
きっかけは、5歳になった息子を連れて久しぶりに母校を訪れたことです。愛真高校の生徒数がかなり減っているというニュースも耳に入っていました。消えてしまう前に記録したいという思いはありました。
この訪問時に、生徒が一人で在校生や教師の前に立つ「夕会」という場に立ち会ったんです。内容はかなり抽象的でした。でも周囲の生徒たちは誰一人笑うことも揶揄することもなく、ただ静かに受け止めていました。終わったら「よかったよ」という言葉があるわけでもなく、普通に日常へ戻っていきました。
その光景を見た夜、どうしても眠れなくなってしまったんです。私もかつてあの場を経験したのだと。そして2つの感情が同時にわいてきました。「こんな体験に意味があるのだろうか」という疑問と、「いいな」という素直な気持ちです。
考えてみれば、社会に出てから自分の話をちゃんと聴いてもらえる場所なんて、ほとんどありません。あの場で誰かが語り、誰かが聴くというやりとりがその後もずっと繰り返されてきたのだと気づいたとき記録しようと決心しました。
──スマホを持ち込めない愛真高校は、閉鎖的な空間と感じる方もいます。実際に学ぶ子どもたちは、その環境をどう受け止めているのでしょうか。
確かに愛真高校の環境は特殊に映るかもしれませんね。ただ、生徒たちは夏休みなどの帰省時にはスマートフォンを使っています。映画の中でも返却するシーンが出てきますが、あれは学校が「取り上げる」のではなく、登校に際して預けるという仕組みです。ラップを歌うシーンがあるように、流行の音楽も知っているし、外の世界と完全に切り離されているわけではないのです。
私が撮影した範囲で言えば、生徒たちはスマートフォンのない生活を「閉鎖」とは捉えていないように見えました。学校にいる間は、意識的に使わないのが当たり前の環境として成立しているのです。先生方も敷地内にいる間はスマートフォンを持ち込まないそうです。自分たちが使わないのに先生だけが使っていたら、やはりおかしいからだと、大人も努力しているんですね。
実はインターネット自体は学校内でも使える環境があり、先生に機器を借りて制限の中で調べ物をすることはできます。情報を遮断しているのではなく、一緒に暮らす時間の間に機械が介在しない、という愛真ならではの環境を守っているのだと思います。
借り物の言葉が剥がされていく高校生活

──映画の中では生徒同士、生徒と教師の対話が繰り返されます。監督ご自身の体験も含め、対話での苦労と喜びを教えてください。
苦労という点では、「借り物の言葉が使えなくなる」という経験が大きかったと思います。誰もが対人関係で使いがちな言い回しや流行語も、24時間そばにいる仲間は多用されると違和感を覚えていきます。「またその言葉使ってる」と指摘されて使いにくくなり、語彙がいったん剥がれていきます。
対して、夕会を経験している先輩の言葉は等身大です。今度は、そんな身近な先輩たちの言葉から影響を受けていきます。そして次の段階として「これは本当に自分の言葉なのだろうか」とわからなくなる。そのしんどさは、相当なものだと思います。自分の言葉を獲得するために、私も葛藤した記憶があります。
喜びという点では、映画にも登場する生徒の一人が、ひどく仲違いした相手のことを「今は大事な友人」と語るシーンがあります。あそこまで言える関係に到達できたということ自体が幸福だと思いますね。
──監督自身にとって、愛真高校での時間はどのような影響を与えていますか。
大切な場所だという感覚はあったのですが、20年ぶりに戻るまで、正直あの場所での経験をあえて言語化してきませんでした。校舎のある山を20年ぶりに登っていくと、帰りたいようで帰りたくないという複雑な感情が湧き上がってきました。あの場所と、もう一度向きあうことになると思いましたね。
学校には、当時の自分が書いた夕会のノートも残っていて、読み返すことができます。20年ぶりに自分が何を話していたのかも確認したのですが、「こんなことを言っていたのか」と恥ずかしくなるような言葉が並んでいました。
でも、あの頃に経験した「上手く話せなくても、静かに茶化されずにちゃんと聴いてもらえた」という感覚は、今でも人生の支えなんですよ。自分の言葉を否定されないという経験は、心が折れそうな時も立ち直れる希望になっています。
歌や演奏が娯楽の学生たち

──映画の中では歌や演奏のシーンが随所に登場します。タイトルにも「聴く」という言葉が使われていますが、音楽の多さには学校としての意図があったのでしょうか。
スマホもテレビも漫画もない環境で、生徒たちの娯楽は、音楽やスポーツなどになっていきます。学校側が意図的に歌や演奏に誘導しているわけではありません。
歌や演奏、合唱が中心の音楽授業や、演奏が上手な先輩への憧れなどを通して、自然と日常生活に音楽が溢れます。3年間でクラス独自のレパートリーが40〜50曲生まれる。それはバズるためでも映えるためでもなく、純粋にコミュニケーションのツールとして音楽が機能しているのです。
撮影中、ある女子生徒が真っ暗なホールで一人、亡くなった祖父への思いを自身で形にして歌っているところに偶然居合わせました。誰かに見せるためでも、うまく歌うためでもない。あの声を聴いたとき、音楽とは本来そういうものなのかもしれないと思いました。
タイトルの「聴く」は、言葉を聴くことだけを指していません。誰かの存在そのものを受けとめる、ともいえると思います。
──最後に、卒業生たちのその後の交流についても聞かせてください。映画でも卒業のシーンが印象的でした。
私の16期は14人で、卒業後はあまり頻繁には集まっていませんでした。この映画がきっかけでグループラインが復活しましたが、個人的には大学1年生のころに少し会った程度で、それぞれの人生へ散っていった感じです。
一方で、他の期ではしょっちゅう連絡を取り合っているらしくて、保護者が「もう次に進みなさい」と言うほどだとも聞きました(笑)。学年によってまったく違うのも、あの高校の面白さです。年度によって、全然生徒たちの雰囲気が違います。
校長先生が「愛真高校は卒業してからが本当の学びだ」とおっしゃっていた言葉も印象に残っています。聖書に「世の光、地の塩」という言葉がありますが、塩が一か所に固まっていてもしょっぱいだけで、散らばることで初めて意味を持つ。卒業生がそれぞれの場所で生きていくことこそが、愛真高校の教育が目指すところなのかなと思っています。キリスト教徒に限らず、教育関係者や子を持つ保護者の方々にもぜひ見ていただけたら嬉しいですね。
映画「聴く隣人のいるところ」 2026年6月6日よりポレポレ東中野ほか全国順次公開
取材協力:
監督・撮影・編集 早川嗣(はやかわ ゆずる)
愛真高校16期生。和光大学卒業後、東京ビジュアルアーツ映画学科に進学。在学中にトリウッドスタジオプロジェクトで中編映画『金星』(2011) の脚本・監督を務める。テレビニュースの技術職を経て2018年3月から本橋成一が主宰するポレポレタイムス社に勤務。本橋成一監督の記録映像『人間の汚した土地だろう、どこへ行けというのか』(2020)の撮影・編集・配給。岡野晃子監督のドキュメンタリー映画『手でふれてみる世界』(2022)の編集・配給。














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