
原爆が投下されて80年が経ちました。全国に9.9万人いる被爆者の平均年齢は86歳を超え、記憶の継承が困難になりつつあります。しかし、原爆の影響を過去の出来事としてではなく、現在も続くものとして受け止めている方もいます。彼ら彼女らはどのように記憶の継承を行っているのでしょうか。2組の被爆二世に話を聞きました。
<目次>
中村親子が取り組む、紙芝居を通した継承

最初に話を聞いたのは、紙芝居を続けてきた中村由利江さんとその活動を引き継いでいる息子の中村竜也さんです。
由利江さんの母親は、爆心地から約1,800m先にある比治山のふもとで洗濯物を干していた最中に原爆の被害を受けたといいます。由利江さんの姉を妊娠していた母親が爆風で飛ばされながらも、とっさにお腹をかばい、背中側からの被爆だったことで大きな損傷は免れました。
父親は別の場所で国鉄の職場へ向かう途中か到着した頃だったといいます。それでも、互いに決めていた「何かあったら実家のある田舎に逃げよう」と約束を交わしていました。母親は子どもを守ることを選び、比治山を越え、汽車を乗り継いで実家へ避難します。父親はその後、職場の人たちを助けながら数日遅れて合流したそうです。「生きててよかった、っていう感じだったんじゃないですかね」と振り返ります。
父親は戦争で二度の銃弾を受けて、さらに原爆も生き抜きました。三姉妹の末っ子である由利江さんは、「生きていればいい」と言われて育ったといいます。勉強よりも日々の暮らしを大切にする家庭で、父親が鉛筆を削ってくれたり、一緒に遊んだりした記憶が残っているそう。被爆の事実は確かにありましたが、それ以上に家族との穏やかな時間が印象に残っているとのことです。

そんな由利江さんが紙芝居を始めたのは45歳のときでした。きっかけは、子どもの頃に近所に来ていた紙芝居のおじさんの存在があります。お金がない子にも声をかけ、誰もが楽しめる場をつくる人だったといいます。話を聞いていてワクワクしたという記憶が、公民館に眠っていた紙芝居「原爆の子 さだ子の願い」と出会ったことでよみがえりました。紙芝居を読み、理解を深めていくにつれ、紙芝居を通して何か伝えるものがあることに気づきます。そこで、由利江さんも読み手になることを決意したそう。
最初からうまくできたわけではありません。「ここがあかんかったな、じゃあどうしたらいいかなって」と振り返るように、やりながら学び、学びながら実践する日々でした。講習会に通い、現場で試し、修正を重ねていきます。
25年続けるなかで、自然と自分のスタイルができていきました。大切にしているのは子どもと一緒に空気をつくることです。「こっちがワクワクしてたら、子どももワクワクするんですよ」と話します。
現在も、学校や地域、そして8月6日の平和公園で紙芝居を続けています。ただ、「一話読んだら、咳き込むようになった」と、年齢による変化も感じているといいます。だからこそ、活動をどう続けていくかを考えるようになりました。
竜也さんが関わり始めたのは、約1年半前のこと。きっかけは、とても現実的なものでした。母の体調と活動の継続、その両方を考えたとき、「やる人がいない」という状況が見えていました。「このままだと、事業自体がなくなるかもしれない」と感じたといいます。
最初から強い使命感があったわけではありません。「やり手がいないなら、やってみようかな、くらいです」と率直に話します。ただ、続けるなかで「子どもの利益になると思うようになった」と、理由は少しずつ変わっていきました。行政の支援はあっても、直接子どもに届く関わりはまだ少ないと感じているといいます。原爆の風化を防ぐために、これまで知らなかった人にも伝えていなければなりません。そのため、海外の人が多い平和記念公園では英語での読み聞かせを行うようになり、さらに地元の高校では3年間でこの紙芝居を英語で喋られるような教育の取り組みも検討されています。
「いろんな人が読んだほうがいいと思うんですよ」と竜也さんは言います。同じ話でも、読み手が違えば伝わり方も変わります。それが子どもにとっての経験になると考えています。活動はまだ手探りの状態です。「無理だったら無理はしないつもりでした」と話しつつも、「できる範囲で、やれることを」と続けています。
明石さんが抱える被爆二世という距離感

次に話を聞いたのは、被爆二世の明石みほさんです。明石さんにとって、原爆との最初の接点は「学び」ではなく、体験に近いものでした。
3歳のとき、資料館に連れて行かれ、何の説明もなく展示を目にしたといいます。その後、小学校に上がる前には映画『はだしのゲン』を観ました。とくに印象に残っているのは、当時の資料館にあった蝋人形でした。知識として理解する前に、強烈な視覚の記憶として残った原爆は、「怖いもの」として心に刻まれていきます。
一方で、家族から原爆について詳しく語られることは多くありませんでした。
「本当に普段の生活のなかで、ポロポロっと出てくる感じです」
母親は被爆当時2歳になる手前で、記憶はほとんどありません。そのため体験を直接聞くことはなかったといいます。ただ、日常の会話のなかで断片的に語られる出来事が、少しずつ積み重なっていきました。
明石さんが育った時代には被爆に関することを表立って話さない空気がありました。
「被爆者家系なんだって言っちゃいけないことなんだなって、みんな知ってるんですよ」
誰の親が被爆者なのか、実は周囲も分かっています。それでも踏み込まず、深く話さないことが暗黙のルールとなっていました。「こっちもそれ以上言わないし、相手のことも聞かないしっていう空気はありましたね」と、思い返す明石さん。理由をはっきり説明されるわけではなくても、自然と共有される“線引き”があったといいます。
原爆との距離を取っていた明石さん。その心境が大きく変わったきっかけは、息子の発病でした。診断されたのは骨髄性白血病です。
正式な診断を受ける前から、ある程度の覚悟はできていたといいます。「その日の夕方には、もう多分白血病だなって思ってました」と振り返ります。理由のひとつは、それまでに触れてきた知識でした。平和教育の中で、被爆と白血病の関係について繰り返し学んできた経験です。
「原爆の後の話になったら、白血病は必ず出てくる病気なんで」
そのため、血液の異常を聞いたとき、真っ先にその可能性が頭をよぎりました。ただし、原爆との関係を断定しているわけではありません。広島の病院で息子の治療を進めると徐々に体調も回復していきます。この体験を通じて広島の原爆被害について伝える立場になろうと決意しました。
時代と共に変わる原爆被害の伝え方

原爆被害の伝え方について、明石さんは変化を感じています。そのひとつが資料館の展示内容です。ショッキングな展示が減り、新しいクリーンな展示が増えていく平和資料館の展示の過程を振り返り、「昔は出せなかったものが、年月が経って出せるようになったものもあるんじゃないか」と感じています。
原爆を「過去の出来事」としてではなく、今も続く問題としてどのように伝えていくのか。はっきりした答えがあるわけではありません。
「理想論と現実論のどちらからも当事者として語れる唯一の存在が広島だと思うんです」
それでも、考え続けていくこと自体が、次の世代への関わり方のひとつなのかもしれません。














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