
「怪しいメールは開かない」「知らないリンクはクリックしない」
ほんの数年前まで、インターネットで被害に遭わないための対策は、それだけで十分だといわれていました。しかし、その常識は今、大きく揺らいでいます。
2026年は、慶應義塾大学や成城大学、和歌山大学など複数の大学の公式サイトが改ざんされ、「ワールドカップ無料視聴」と書かれた偽ページへ利用者を誘導する事案が相次いで確認されました。本来なら信頼できるはずの大学の公式サイトが、詐欺サイトへの「入口」として悪用されたのです。
こうした同じような手口は、企業や自治体のホームページでも確認されており、「公式サイトだから安心」という常識は、もはや通用しなくなりつつあります。
では、私たちは何を信じ、何を確認すれば身を守れるのでしょうか。そこで今回は、情報セキュリティが専門の神戸大学大学院工学研究科教授・森井昌克さんに話を聞きました。
<目次>
もはや「怪しいサイト」が入口ではない現状
かつてのネット詐欺は、いわば「分かりやすい罠」でした。不自然な日本語のメールや、見慣れないSMS、怪しげなサイトに誘導するリンクなど、「怪しいものに近づかなければ防げる」という側面があったのです。しかし森井さんは、その状況はすでに変わっていると指摘します。
「フィッシング詐欺そのものは以前からありましたが、利用者への注意喚起が進み、単純なばらまき型では引っかかる人が減ってきています。犯罪者側も、より巧妙な手口へ移らざるを得なくなっています」
その結果増えているのが、大学や企業、自治体など、本来なら安心して利用できるサイトを改ざんし、そこから偽サイトへ誘導する手口です。
以前は、セキュリティ対策のゆるい個人ブログや、いわゆる「怪しいサイト」が悪用されることが多くみられました。しかし最近では、サイバー攻撃によって正規のホームページが改ざんされ、利用者が通常どおりリンクをクリックしただけで、フィッシングサイトやサポート詐欺の画面へ飛ばされるケースが増えています。
もちろん利用者からすれば、「怪しいサイトを見ていた」わけではなく、いつも通り大学のホームページを開いてクリックしただけです。それでも被害に遭ってしまう…。安心できるはずの場所が、いつの間にか危険な入り口に変わっている。この「信頼の裏をかく」構図こそ、現在のサイバー攻撃を象徴する大きな特徴なのです。
サイバー攻撃といわれると、高度な技術でコンピューターを乗っ取る --そんなイメージを抱く人も多いかもしれません。しかし森井さんは、「最近の攻撃は技術よりも人を狙っている」と話します。
犯罪者はまず、標的の個人情報を集めます。名前や住所、メールアドレス、勤務先、利用しているサービスなどを把握したうえで、その情報を利用して相手を信用させたり、不安をあおったりします。
「相手の平常心を崩しながら、同時に信頼を得る。それが詐欺の基本です。たとえば、『大学の公式サイトだから』『銀行からの通知だから』というように思い込む心理そのものが、狙われています」
つまり攻撃されているのはシステムだけではないということです。私たちが普段、何気なく抱いている「安心感」そのものが標的となっています。つまりは、技術が進歩したというよりも、人の心理を利用する技術が格段に巧妙になっているといえるでしょう。
日本社会とインターネット社会の違い

こうした状況のなかで多くの人が感じているのは、「何を信じればいいのか分からない」という戸惑いではないでしょうか。
- URLを確認する
- SMSの送信元を確認する
- メールアドレスを確認する
- 二段階認証を設定する
今では、以前なら必要のなかった確認作業が、日常のあらゆる場面で増えています。その背景にあるのは、日本社会とインターネット社会の違いがあるといいます。
「日本は昔から、周囲の人や行政など、誰かが守ってくれるという社会でした。一方、インターネットは欧米型です。自分の身は自分で守るという考え方が前提になっています」
現実社会では、「公式だから信用する」という行動はごく自然なことでしょう。ところがネット空間では、その「信頼」こそが攻撃の入り口になってしまうことがあります。だからこそ今求められているのは、「誰かが守ってくれる」という発想を手放し、自分自身の目で確認をする姿勢です。私たちは知らないうちに「安全確認」という新しい仕事を、毎日の暮らしのなかに抱え込むようになったのかもしれません。
その一方で、安全性を高めれば高めるほど、利用者の負担は増えていきます。「毎回二段階認証を求められる」「パスワードを定期的に変更する」など、便利さを追求してきたインターネットは、少しずつ「確認の手間」が増える方向へ変わっているのがわかります。
この現状に対して森井さんは、「利便性と安全性は反比例する」と説明します。だからこそ今後は、「安全性を優先するサービス」と「利便性を優先するサービス」を利用者自身が選ぶ時代になるのではないか——森井さんはそう予測をしています。
実際、銀行や証券会社では、多要素認証やパスキー(FIDO認証)などを導入する一方で、「必要な対策を行っていない場合は、補償の対象外となることがあります」と案内するケースも増えています。これは、企業だけが責任を負う時代ではなく、利用者側にも一定の責任が求められる社会へ変わり始めているひとつの事例とも捉えられるのではないでしょうか。
「確認しなくていい社会」は来るのか?

「サイバー社会が本格的に始まってまだ20年ほどです。それで完成した社会になるとは考えにくいでしょう」
私たちの人間社会も、現在の姿にたどり着くまでには、長い時間をかけてルールや制度を築いてきました。ネット社会も同じように、技術と制度、利用者の意識が少しずつ成熟していくことで、より安心して利用できる環境へ近づいていくはずだと森井さんは語ります。
「10年、20年という時間で見れば、今のようなトラブルは徐々に解決されていくと思います」
その言葉には、技術の進歩だけではなく、社会全体がネットとの付き合い方を学んでいくことへの期待が滲んでいました。
かつては「知らない人を疑う」だけで十分でした。しかし今は、「知っている場所」や「信頼しているサービス」であっても、一度立ち止まって確認することが求められる時代です。
私たちは便利さを手に入れた代わりに、「確認する」という新しい負担を引き受けることになりました。
とはいえ、何もかも疑い続け、不安を抱えながら暮らす社会が理想ではありません。大切なのは、「疑うこと」が目的ではなく、「安心して信頼できる社会」を取り戻すための過程だと理解することではないでしょうか。
ネット社会は、まだ発展の途中にあります。だからこそ今は、「誰かが守ってくれる」ではなく、「自分の身は自分で守る」という意識を持ちながら、必要な確認を重ねていくことが大切です。
その地道な積み重ねこそが、将来「何度も確認しなくても安心できる社会」へ近づくための土台になるのかもしれません。

森井 昌克(もりい・まさかつ)神戸大学名誉教授・特命教授。
工学博士(大阪大学)。専門は情報通信工学、サイバーセキュリティ、暗号理論。徳島大学教授を経て2005年より神戸大学大学院工学研究科教授に着任し、長年にわたり最先端の研究と人材育成を牽引する。内閣府や総務省などの政府系委員会において座長や委員を歴任し、経済産業大臣賞や総務省情報通信功績賞など受賞歴多数。サイバーセキュリティの第一人者として、メディアでの解説や啓蒙活動、政府への政策提言など多方面で精力的に活動している。





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