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戦後80年の節目に改めて考える。栃木県那須町「戦争博物館」で体感する戦争のリアル
- 2025/7/29
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- 博物館, 戦争, 栃木県
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2025年は、第二次世界大戦終結から80周年の節目の年です。令和を生きる日本人は、戦争を映画やゲームの物語、あるいは遠い国の出来事と感じるかもしれません。しかし、わずか80年前まで日本は戦場でした。
栃木県那須町にある戦争博物館は、戦争に関する数多くの品々を集めた博物館です。兵士が手にして戦った銃、戦時下の家庭で使われていた日用品などから、教科書では触れない軍事の歴史を感じとれます。
今回の記事では、現館長の本里福治氏にお話を伺いました。戦争博物館の貴重な資料から、戦争が日常だった時代に思いを馳せます。
<目次>
戦争博物館について

戦争博物館は、明治維新から第二次世界大戦までの戦争に関する資料を展示している博物館です。15,000点を超える収蔵物は、かつて軍人だった前館長の栗林白岳氏が集めた戦友の遺品と、全国から贈られてきた貴重な寄贈品。戦場や戦時中の家庭で使用されていた品々が、戦争の面影をリアルに映し出します。

戦争博物館の入口に展示されている「97式中戦車」は、神奈川県にある雨先海岸付近の土中で見つかりました。掘り起こしと運搬には、本里館長も携わったといいます。

砂浜と草地の狭間に埋められていたため、傷みはありますが、車輪と砲身はしっかりと残っています。

戦争博物館は案内図にあるとおり、展示室が分かれています。今回の取材では、陸軍館と海軍館を案内していただきました。
陸軍館で学ぶ戦争の面影

陸軍館には銃や軍服など、戦場で実際に使われていた品々のほか、戦時下の日常が垣間見える資料も展示されています。
戦争の面影を伝える資料

前館長の時代には、戦場を経験した方が博物館を訪れ「俺はあの銃を撃っていたんだ」と語ることも多かったそうです。年月が流れ、時代が移ったいまでは、そのような光景は見られなくなりました。

ガラスケースの外に置かれた展示物もたくさんありました。実際に使われていた銃を目の前にすると、驚きに似た緊張感を覚えます。「日本軍が大いにこの銃で苦しめられた」という一言に、どれほど多くの命が隠れているのでしょうか。

当時の戦況を伝えていた新聞も、ずらりと展示されています。
戦時中の各部隊には、新聞記者とカメラマンが従軍していました。大きな部隊では、5人前後の記者がついたケースも。彼らは毎日、亡くなった方の人数やその日の戦果などを書き起こし、無線やテレックスで日本へ送っていたそうです。

こちらは戦場で実際に使われていた、輜重車(しちょうしゃ)の車輪です。輜重車とは、物資を運搬するために使われていた荷馬車です。
戦争には人間だけでなく、動物たちも参加していました。輜重車を曳く軍馬、軍人とともに戦った軍犬、情報を伝えるために飛んだ軍鳩(伝書鳩)など、動物は戦場になくてはならない存在だったそうです。

第二次世界大戦が終戦を迎えた1945年から、サンフランシスコ条約が発効した1952年まで、日本は連合国(アメリカ、イギリスなど)の占領下にありました。その歴史を物語るのが、写真の時計に刻まれた小さな文字です。

〔MADE IN OCCUPIED JAPAN〕占領下の日本製。占領下の7年間に日本で作られた製品には、OCCUPIEDの文字を刻まなければなりませんでした。戦争博物館にはこの時計のように、時の流れに埋もれがちな事実を伝える資料が残っています。
寄せ書きと千人針に託された悲しい思い

軍隊への召集の知らせは、いわゆる「赤紙」によってもたらされました。当時は特別なものではなく、手紙と同じように郵便で配達されていたといいます。

戦地に赴く前夜には、出征する人の家に家族や親戚、友人たちが集まってお酒を酌み交わしました。その席で贈られたのが、参加者1人ひとりが国旗に名前を書いた「寄せ書き」です。

戦争博物館には、武運を願って作られた「千人針」も残っています。女性たちが1針ずつ赤い糸を縫い、名前を書いた布です。寄せ書きも千人針も「お腹に巻けば銃弾が避けて通る」といわれ、お守りとしての意味合いがありました。
※千人針は海軍館に展示

寄せ書きと千人針に託された悲しい思いを、本里館長は次のように語ります。
「当時は出兵する人に対して、家族や親戚が『お国のために死んでこい』と声をかけました。でも、その言葉は『死ぬ気で頑張って、そして帰ってこい』という意図だったのです。本当は息子を見送る両親も、夫を送りだす奥さんも、生きて戻ってきてと切望していました。だからこそ、人々は口に出せないその願いを、寄せ書きや千人針に託したのでしょう」
戦争博物館の寄せ書きと千人針は、愛する人を戦地へ送りださなければならなかった、家族や友人の悲しみを現代に伝えています。
海軍館に残る息遣いと貴重な遺物

陸軍館を出て、別棟の海軍館へ。こちらには海軍に関する資料や、軍隊で実際に使われていた品々が展示されています。
人の手が触れていたもの

前線の兵士がご飯を炊いていた飯盒(はんごう)。焦げた跡が、実際に使われていたことをリアルに物語っています。復員した多くの方々が、戦後も飯盒を大切に保管していたそうです。

命を守る鉄兜は、調理用の鍋としても使用されていました。軍隊の装備品を炊事道具に転用するほど、当時の生活は大変だったのでしょう。命をつなぐために、ありとあらゆる工夫をしていたことが垣間見えます。

操舵士(船の操縦士)が舵取りに使った「舵輪(だりん)」と呼ばれるハンドルも展示されていました。「ヨーソロー!」という掛け声を合図に、操舵士が船を前進させていたといいます。実際に海で船を動かすとき、舵輪はどれほど重かったのでしょうか。

回転するガラス板がついた丸いもの(左下)は、ガラス板をモーターで回して、ワイパーのように水しぶきを飛ばすための部品です。船の重要な場所である「艦橋」の窓にかかる水しぶきを払って、艦長の判断や操舵士の舵取りなどを守っていました。

海戦のイメージが強い海軍にも、上陸して戦うための陸戦隊がありました。陸戦隊で使われた銃、兵士が着用していた靴やウエストバッグ、水筒といった装備品も展示されています。食べる、触れる、声を出す、身につける。海軍館では、人の息遣いを感じる貴重な資料を見られます。
圧巻のB-29主脚

海軍館の中でひときわ大きく、目を引くのが「B-29」の主脚です。主脚とは、機体に取り付けられた左右一対の車輪と支柱を指します。
B-29は、アメリカのボーイング社が開発した高性能な爆撃機。海軍館に展示されているのは、木更津沖に墜落したB-29の主脚で、2020年12月に発見されたものです。

機体の全体図が分かる、小さな模型も一緒に展示されていました。

主脚の隣にあるのは、B-29の中心に配置されていた車輪です。その大きさと存在感には、見る者を圧倒する迫力があります。B-29は、日本に対するほとんどの空襲に使われていました。広島と長崎の原爆投下もB-29によるものです。
海軍館の主脚の展示は、実際に空を飛んでいたB-29の一部を目の当たりにできる、世界的に貴重な資料となっています。
戦争博物館と平和の維持

今回の記事では、栃木県那須町の戦争博物館をご紹介しました。
日本には、戦争のない平和な期間があるとされています。江戸時代の約260年間と、第二次世界大戦の終戦から現在までの80年間です。本里館長は「これほど長期にわたって平和を保ち続けているのは、軍事研究家が驚くほど珍しく、素晴らしいことなのですよ」と話します。
「現在、戦争博物館の客層は20~40代が主流で、それ以上の方は少ない傾向にあります。一人旅やお友達同士の観光客、子ども連れのご夫婦といった若い方々が、観光先のひとつとして立ち寄っているようです。戦争を知らない世代がこの博物館を訪れるのは、とても良いことだと思っています。
戦争をくり返さないために必要なのは、現代を生きる皆さんが、戦争があった事実を忘れないことです。若い世代の方々が、ここで戦時中の武器や日用品を見て、戦争の歴史を身をもって知る。その経験が、日本の平和の維持につながっていくのではないでしょうか」(本里館長)
戦争は単なる映画や小説のストーリーではなく、まぎれもない史実です。戦争博物館はその歴史をリアルに感じられ、一つひとつの展示品には、名もなき兵士やその家族の思いが宿り、戦争の現実を静かに語りかけているようでした。
戦争を知らない世代が、この場所で「何が起きていたのか」を肌で感じることは、決して過去を振り返るだけではありません。戦争をくり返さない未来をつくるための、大切な一歩でもあります。第二次世界大戦終結から80年の節目だからこそ、いま一度、戦争について考えてみてはいかがでしょうか。
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