ゴールデンカムイの舞台にもなった「網走監獄」歴史からひも解く網走刑務所の真実

博物館網走監獄

網走刑務所から約2km離れた場所には、明治時代から実際に網走刑務所で使用されてきた建造物を保存公開している「博物館網走監獄」という施設があります。博物館網走監獄では、網走刑務所が辿ってきた130年以上の歴史を深く知ることができます。

「昔の網走監獄は、凶悪犯が多く収容されていたのか?」
「時代ごとの刑務所の変化を知りたい」
「網走監獄が登場する大人気漫画『ゴールデンカムイ』の影響は、現地にも及んでいるのか?」

そんな疑問に答えるべく、博物館網走監獄の担当者にお話を伺いました。

<目次>

網走刑務所の始まり

網走刑務所は、1890年(明治23年)に「釧路監獄署網走囚徒外役所」という名前で設立されたのが始まりです。この名前からもわかるように、かつては多くの囚人が北海道開拓のための労働力として使役されていました。

網走刑務所設立の背景

博物館網走監獄に移設された網走刑務所の3代目正門(再現構築物)
博物館網走監獄に移設された網走刑務所の3代目正門(再現構築物)

長く続いた鎖国時代が終わった明治初期の当時、ロシア帝国の南下政策を防ぐため、北海道開拓は日本政府にとって重大な懸案事項でした。また、時を同じくして、西南戦争後の国族・政治犯8万人の収容場所不足も課題として抱えており、遠隔地に危険分子を隔離する必要がありました。

そこで、1881年(明治14年)に監獄則改正が行われ、徒刑、流刑、懲役刑12年以上の者を拘禁する集治監を未開の地・北海道に作ることになりました。囚人には開拓労働を行わせ、刑を終えて出所した後もその地に住み着いてもらえれば、自ずと人口を増やすこともできます。また、仮に過酷な労働で囚人が死亡したとしても、むしろ監獄費の節約になるという、今の時代では考えられないような非人道的思想が当時は当たり前のように存在していました。

実際、石炭採掘や硫黄採掘の作業においては、多くの囚人が犠牲に。北海道各地の集治監を束ねる大井上輝前典獄は、死罪ではない多数の囚人が刑を終えて社会に出る前に亡くなっている状況を見かね、石炭や硫黄の採掘現場から囚人を引き上げました。

この行為が国から咎められ、のちに彼は罷免されてしまいますが、次に着目されたのが中央道路の開拓です。道路開拓ならば採掘作業ほど死亡者は出ないだろうと見越してのことでしたが、実際はこちらも過酷な労働による犠牲が少なくありませんでした。ですが、この中央道路の開通が、北海道の人口増加に大きく寄与することになったのです。

囚人労働による地域の発展

網走刑務所の設立前から網走村という漁村は存在していましたが、人口はわずか623人。そんな小さな村に1,200人もの囚人がやってくることになり、看守やその家族も含めると総勢2,000人にも上りました。いわば村が一気に都市化したかのような変貌ぶりです。体の弱い人や高齢者を除き、1,000人以上が徒歩で網走まで大移動しました。人目にはふれないよう山の中を歩いたため、食糧も何もない山中で脱走しようと目論んだ囚人はいなかったようです。

樺戸では開拓にあたり、村の学校の整備、寺院や公民館の設立なども同時に行われました。公民館では、集治監の典獄夫人が村の子どもたちのためにオルガンを買って弾き方を教えてあげるなど、密な交流があったといいます。

網走監獄の暖房施設の様子
網走監獄の暖房施設の様子

今の時代だと、生活圏内に刑務所があることに嫌悪感を覚える人が少なくないかもしれませんが、当時の網走は違いました。むしろ三顧の礼で、典獄が率いる囚人たちを迎えたといいます。言わば「監獄城下町」ともいえる集治監周辺一帯は、国費であらゆる施設・設備の整備が迅速に進んでいきました。

当時、最新鋭だった電灯やボイラーなどがいち早く導入され、獄舎もそれまでの牢屋敷とは一線を画するモダンな造りで建てられました。「近代文明は刑務所から始まった」という言葉を当時の地域住民が残すほどです。

また、網走の漁業は慢性的な人手不足を抱えていたため、捕獲用の網を繕う作業や、蟹の缶詰工場などの各種工場での作業、漁をするうえで邪魔な分厚い流氷を切り崩す作業など、さまざまな場面で囚人が労働を担いました。人材不足を補填してくれるため、罪人ではありながらも地域にとっては欠かせない存在でもありました。

「農園刑務所」である理由

農園作業の様子

網走は当初、刑務所の建設予定地ではありませんでしたが、釧路ほど寒さが厳しくなく、日照時間の長さや肥沃な土地を有している点が着目されました。さらに、川と山に囲まれた場所で市街地からも離れているため、民間人に及ぼす影響が少ないということも大事なポイントでした。

網走刑務所は、日本の刑務所で初めて「農園設備特設刑務所」に指定された場所です。当時は北海道大学農学部出身の技官を迎えて稲作にも挑戦するなど、さまざまな寒冷地農業を行いました。アメリカの最新鋭の技術・知識を取り入れて多角的に作物を収穫するなど、農業においても近代化が顕著でした。

農場という開放的な場所柄、二見ヶ岡農場は塀がありませんでした。脱走が心配されるかもしれませんが、「厳しく罰するだけでは更生しない」という考えが当時から存在していました。

更生した罪人の社会復帰という刑務所の役割に重きを置き、作物や家畜を育てることで人間らしい愛着を湧かせる情操教育に注力しました。また、1894年(明治27年)に囚人の強制外役労働の中止が決定したことも大きな転機でした。当時は食糧難の時代でもあったため、外役ができないならば、囚人に刑務所で農業をさせようという方向に転換していきました。

網走刑務所の昔と今

博物館網走監獄の入り口
博物館網走監獄の入り口

130年を超える長い歴史が詰まった網走刑務所。昔と今を比べると、大きく変化していることがうかがえます。

人権意識の高まりや制度改正

2001年に、名古屋刑務所で刑務官が放水銃を使用し、受刑者が死亡する事件が発生しました。さらに旭川刑務所では、除雪作業が過度に長時間に及び、余暇が著しく制限されたとして、受刑者が刑務官を訴える事態も起きています。こうした事例は全国の刑務所に波紋を広げ、網走刑務所も例外ではありませんでした。

このような経緯もあり、2005年(平成17年)には、100年ぶりに監獄法から刑事収容法へと法律が刷新され、この時期から矯正教育を軸とする傾向が強まっていきます。博物館網走監獄が行う講演では、旧網走刑務所は当時の監獄法に基づいて運営されており、現在の基準から見て違法とはいえないこと、そして現在の網走刑務所とは制度的にも運用面でも異なる施設であることが強調されています。

さらに、2025年に拘禁刑が新たに導入されたことで、受刑者に対する人権意識はさらなる高まりを見せています。受刑者は番号で呼ばれるイメージがありますが、今は名前に「さん」を付けて呼ばなければいけません。出所前のケアも行き届いており、「矯正教育施設」としての色合いが時代とともに濃くなっています。

博物館網走監獄は刑務所に図書費を毎年寄付していて、文芸や雑誌などの一般的な書籍のほか、六法全書や英会話などの学習本が意外にも人気だといいます。また、余暇時間には読書に加えてテレビ視聴の選択肢もあり、現代の刑務所は必ずしも閉鎖的な空間ではありません。受刑者は、ある程度自らの意思で情報を得ることができる環境にあります。

時代による受刑者の変化

刑務所内での作業の様子
刑務所内での作業の様子

明治時代の囚人は、大きく分けて2つのタイプに分類されます。ひとつは、政府に対して反抗的な思想や行動を取った政治犯や思想犯。もうひとつは、貧困のためやむを得ず犯罪に手を染めた人々です。

囚人の犯罪歴はさまざまで、遠方から収監される者も少なくありませんでした。船や列車を乗り継ぎ、降りた後もひたすら歩かなければいけないため、移動だけでも相当な負担を強いられました。

現地に着いたら待っているのは過酷な労働です。その様子は、まさに「島流し」と形容しても過言ではありません。冬場はマイナス数十度まで下がる極寒地帯であるため、寒さに慣れていない囚人にとってはあまりに厳しい環境でした。

独居房
独居房

また昔は、規則違反を繰り返す者や集団生活ができない者が「懲らしめ」として独居房に収容されました。他に、就寝中の歯ぎしりやいびきがひどい囚人も独居房の対象でした。当時の独居房は「他者と区別する」という意味合いが強く、中からも向かい側が見えないように斜め格子がはめられていました。こういった居室の処遇は現代の刑務所とは正反対で、今は1人にしておくと危険な受刑者が共同室に入れられます。

映画「刑務所の中」
映画「刑務所の中」

網走刑務所というと、映画などの影響で「重罪犯の吹き溜まり」といったイメージを抱いている方が少なくないでしょう。ですが現在は、罪名は主に覚醒剤事犯で、2〜3年という短い刑期ではありながらも、入所と出所を何度も繰り返しているような受刑者がほとんどです。

現在では、環境や人権への配慮がなされているため、かつてのような過酷さを刑務所において感じることはまずありません。刑務作業は行いますが、就労時間はそこまで長くなく、一般的な会社員と同様、土日祝日は受刑者にも休みが与えられます。作業で得たお金で好きなお菓子やパンを買うことも許されています。

網走刑務所は、定員1,500人に対して現在の収容者数は370〜380人程度で推移しているため、受刑者は原則として1人1室の居室に収容されています。仮に病気などで民間の病院に入院する場合でも、一般人からは隔離する必要があるため、病室は個室です。体調を崩しても手厚い医療を受けることができ、快適に寝られる場所も食事も保証されているため、今は刑務所が「入りたくない場所」ではなくなってきているようです。

実際、刑期を終えて出所することができても、すぐに無銭飲食などで捕まり「刑務所に戻してくれ」と訴える元受刑者もいます。改善更生させるための場所であるはずなのに、再犯を生ませてしまっているという現状は、現代の刑務所が抱える課題のひとつといえるでしょう。

地元民や一般社会との関わり

明治から昭和にかけて、網走刑務所の受刑者は道路や港湾の復旧、女満別空港の滑走路整備などにも従事し、地域の発展に大きく寄与しました。昭和20年前後には北海道開発名誉作業班が組織され、優良受刑者が各種作業に従事し、政府からメダルを授与されました。

昭和30年代までは、受刑者と地元民の交流も盛んに行われてました。たとえば、地元の子どもたちが花束を手に受刑者を励ましに訪れ、歌を歌ったり、学芸会の演目を披露したりすることもありました。また、受刑者が子どもたちの散髪を行うこともあったといいます。

また、受刑者が馬の身体を洗うために近くの湖へ向かう際に、子どもたちがついていき、馬に乗せてもらうこともありました。刑務所内の農場にあった映写機を使って、子どもたちと一緒に映画を鑑賞することもあったそうです。当時の子どもたちは、受刑者を特別に恐れることなく、自然なかたちで接していました。

刑務所の農場で栽培された作物は、基本的に受刑者の自給用として利用されていますが、収穫量が多かったため、模範囚の受刑者が余った作物をリヤカーに載せて近隣の民家に販売していた時期もありました。新鮮な野菜が市場よりも安価で手に入るとあって、地域の住民からはたいへん好評だったといいます。

現在でも、網走刑務所で開催される矯正展では、作業製品などの物品販売が行われており、毎年4,000〜5,000人にのぼる来場者で賑わいを見せています。

博物館網走監獄とは

舎房内
舎房内

博物館網走監獄は、網走刑務所の旧建造物を保存公開している野外歴史博物館です。庁舎や独房など、一部の施設は重要文化財や登録有形文化財に指定されており、古き時代の刑務所の雰囲気を現代においても実感することができます。

移築復原された旧網走刑務所

舎房の外観
舎房の外観

博物館網走監獄に保存されている旧建造物は、正確に言えば移築復原されたものです。部材ごとにナンバリングして写真を撮り、極小単位で解体して移動し、それらを改めて組み立て直しました。

レンガで造られた床や廊下については、使用されたレンガ一つひとつに番号が振られるほど、細部にまでこだわって整備されました。移築でありながらも新築よりはるかに手間も費用もかかっているからこそ、当時のまま建造物を保存することができています。

舎房内にある中央見張所
舎房内にある中央見張所

囚人が収容されていた舎房は5つの棟で形成されており、放射状に連なっていることが特徴的です。これはフランスの刑務所の集中方式という造りを取り入れたもので、大人数の囚人を少人数の看守で効率良く管理することができます。

この建物の建設においても囚人が労働を担いましたが、スピード感を求められたことから、特に重視されたのが「単一性」です。作業に集中させるため、すべての棟を同一の構造で設計する方針が採られました。

また、収容された囚人が暴れて扉や柱を破損させたとしても、造りがすべて同じであれば速やかに修繕しやすいという利点もありました。集合性、管理性、単一性のほか、衛生面も見直されました。それまでの獄舎は真っ暗闇でしたが、精神衛生上良くないとされ、天窓が導入されて日の光が舎房にも差し込む造りになりました。

舎房内にある中央見張所の中からの眺め
舎房内にある中央見張所の中からの眺め

一方で、放射状の舎房は火災に弱いというデメリットもあり、1舎が燃えると他の舎にもあっという間に燃え移ってしまうという事態が頻繁に発生していました。そのため、大正時代以降は放射状ではなく並列型へと移り変わっていきました。

漫画「ゴールデンカムイ」の影響

漫画「ゴールデンカムイ」の登場人物のモデルになった「白鳥由栄」
漫画「ゴールデンカムイ」の登場人物のモデルになった「白鳥由栄」

漫画「ゴールデンカムイ」は、明治末期の北海道を舞台とした金塊をめぐる物語です。累計発行部数2,900万部(2024年8月時点)を超える大人気作品で、アニメ化・実写化もされています。この作品の中に網走監獄が登場するため、時折キャラクターのコスプレをして来館するファンもいるとのこと。作中のシーンで登場する建造物について質問されることもあるそうです。

刑務所にまつわる豆知識

刑務所にまつわる言葉でなんとなく理解しているけど、実際は意味が違う言葉があります。ここではそんな言葉と豆知識を皆さんへお伝えします。網走監獄ではこういった豆知識も含め、網走刑務所の歴史や背景を学べます。

刑務所の飯が「クサい飯」と言われている背景

共同室で食事をしている受刑者の様子
共同室で食事をしている受刑者の様子

刑務所の食事を指して「クサい飯」という言葉を耳にしたことがある方もいるかもしれません。臭くてまずい食事を我慢して食べるという印象を持たれがちですが、実際にはご飯そのものが臭かったわけではありません。

かつて、受刑者が収容されていた居室には、部屋の隅に汲み取り式のトイレが設置されており、その臭気が室内に充満していたといいます。そのような環境の中で食事をとらなければならなかったため、「クサい飯」と呼ばれるようになったのが由来とされています。

現在では、そうした印象はほとんどなくなっており、提供される食事は栄養価やカロリーが適切に管理され、味も十分に配慮された内容となっています。

青森刑務所や宮城刑務所の管理栄養士さんのインタビュー記事もご覧ください。

ムショ飯の由来は「刑務所の飯」の略称ではない

受刑者が食事をしている様子
受刑者が食事をしている様子

「ムショ飯」という言葉を、単に刑務所の食事を略した表現だと思っている人も多いかもしれませんが、その語源は別にあります。刑務所では、ご飯に麦が混ぜられて提供されており、その割合が戦前は麦6割・米4割でした。この「麦6(む)・米4(し)」が語源となり、「む」と「し」が訛って「むしょ」となったことから、「ムショ飯」と呼ばれるようになったといわれています。なお、現在の割合は麦7割・米3割です。

「叩き起こす」という語源は網走刑務所の歴史にある

休泊所内の様子
休泊所内の様子

中央道路を開削している時代、”動く監獄”とも言われていた休泊所がありました。毎日朝から晩まで働き詰めの受刑者は、休泊所で寝泊まりします。休泊所は丸太で作った簡易的な建物・寝床で受刑者が寝ている枕も丸太でした。寝ている受刑者を起こす際、枕代わりとなっている丸太を刑務官が叩いて起こすことから「叩き起こす」という言葉ができたそうです。

関連リンク

博物館 網走監獄
https://www.kangoku.jp/index.html

網走監獄VR
https://kangoku.heritabi.com

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<TEXT/小嶋麻莉恵>

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