フランスの名優アラン・ドロン氏が8月18日、中部ドゥシーの自宅で88歳で亡くなりました。死因は明らかになっていませんが、リンパ腫を患っていたとのことです。
アラン・ドロン氏は1935年、パリ郊外に生まれ、17歳でインドシナ戦争に従軍しました。帰国後、1957年に『女が事件にからむ時』で映画デビューを飾りました。1960年の『太陽がいっぱい』で欲望に駆られる青年を演じ、一躍スターの座に上り詰めます。
イタリアの名匠ルキノ・ビスコンティ監督の『山猫』(1963年)や、ジャン・ギャバンとの共演作『地下室のメロディー』(同)でも存在感を発揮。60年代半ばのハリウッド進出は失敗に終わりましたが、フランスに戻ってからは『冒険者たち』(1967年)などで再び輝きを取り戻しました。
日本でも人気を博し、『レッド・サン』(1971年)では三船敏郎氏と共演しています。1964年に結婚した女優のナタリー・ドロン氏とは『サムライ』(1967年)などで共演しており、1969年に離婚しています。
エマニュエル・マクロン大統領は、「世界中に夢を与えてきた。スターであるだけでなく、フランスの記念碑だった」と追悼の意を表しました。アラン・ドロン氏の訃報は、世界中の映画ファンに悲しみをもたらしています。
デヴィ夫人「寂しい。もう一度会いたかった」
フランスの名優アラン・ドロン氏の訃報に、かつての交友を回顧するデヴィ夫人。「寂しい。もう一度会いたかった」と静かに語りました。
デヴィ夫人がアラン・ドロン氏と初めて出会ったのは、最初の東京五輪があった1964年です。夫のスカルノ・インドネシア大統領と帝国ホテルに滞在中、同じホテルに泊まっていたアラン・ドロン氏に、スカルノ・インドネシア大統領はやきもちを焼いたとのこと。
スカルノ・インドネシア大統領の失脚・死去後、パリの社交界で「東洋の真珠」と称されたデヴィ夫人。1970年代初めには、アラン・ドロン氏と一時的に親密な関係になっています。しかし、アラン・ドロン氏には同棲相手がおり、「うたかたの恋」に終わったと振り返ります。
2024年1月のフランス訪問では、多忙のため見舞いに行けず悔やんでいるとのことです。「もしかしたら私の面影を追い求めていたのかも」と、アラン・ドロン氏の晩年の日本人女性との事実婚報道に想いを馳せました。
ネット上では、「アラン・ドロンは正統派二枚目ではなく、どこか野卑なところが魅力だったと思う」「アラン・ドロンさんもデヴィ夫人も絶世な美男子と美女」「アラン・ドロンの美しさは忘れられません」などの声が寄せられています。