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- 名古屋の映画文化を象徴するミニシアター「シネマスコーレ」が長く愛される理由

名古屋駅西口、通称「駅西」に静かにたたずむ小さな映画館「シネマスコーレ」。1983年の開館以来、40年を超えて名古屋の映画文化を支え続けてきたミニシアターである。スコーレとはラテン語で「学校」を意味し、その名の通り映画を通じて人々を育んできた。今回は、初代支配人であり、現在は代表取締役を務める木全純治氏に、シネマスコーレが長く愛される秘密を伺った。
<目次>
ミニシアターの魅力
ミニシアター誕生の背景 ― 映画の多様性を求めて
東京の渋谷を中心にミニシアターブームが起こったのは1980年代から2000年代のこと。1980年代初頭、欧米ではインディペンデント映画や作家主義映画が再評価されつつあった。しかし、日本では商業映画が主流で、海外の芸術映画や若手監督の作品を上映する場がほとんどなかった。
当時の映画館は、封切映画を上映する「封切館」と、すでに公開が終わった作品を安価に二本立て・三本立てで上映する「名画座」に分かれていた。その結果、映画の多様性や文化的実験性を担う場が欠落していたのである。さらに、ビデオの普及で名画座の存在意義も薄れていった。
そうした状況のなかで、劇場未公開でビデオ化されていないアート系映画を上映する「ミニシアター」が生まれたのだ。1982年には東京・渋谷に「ユーロスペース」が誕生し、同年には「名古屋シネマテーク」、翌1983年には「シネマスコーレ」がオープンした。

またミニシアターは、主にインディペンデント映画、アート系、ドキュメンタリー、海外の知られざる監督など、多様な映画を紹介する場として機能した。サブカルチャーの台頭を背景に、都市の若者文化と結びついていったのである。
“文化拠点”としてのミニシアター
ミニシアターの最大の魅力は、そこに行かなければ観られない作品に出会えることだ。
たとえばユーロスペースや2023年に閉館した名古屋シネマテークは、ヨーロッパの作品を中心に上映してきた。一方シネマスコーレは、日本未公開のアジア映画やインディペンデント作品を積極的に上映することで独自性を確立してきた。

木全氏が特に魅力を感じるのは、アジア映画の根底に流れる儒教や仏教の価値観だという。
観客との距離の近さ
ミニシアターならではのもうひとつの特徴は、観客との距離の近さである。上映後の監督や俳優によるトークイベント、常連客との立ち話、若手映画人との交流など、人と映画の交流が日常的におこなわれている。

その好例が、俳優・中村優一氏と坪井篤史支配人によるトークイベント「中村優一のおしゃべりシネマ。」である。
このイベントは上映を伴わず、劇場2階の「スコーレインディスペース」で2時間にわたり、中村氏と坪井氏が映画について語り合うスタイルをとっている。参加者には「ここで聞いた話を外部に漏らしてはならない」という秘密のルールが設けられたという。まさに、映画文化を「共有する」場にふさわしい、何ともワクワクする体験ではないだろうか。
ここでは、映画が「商品」ではなく「文化」として息づいているのだ。
シネマスコーレ初代支配人と映画への思い
木全氏の映画人生とシネマスコーレの軌跡
木全氏の映画人生は、同志社大学文学部を卒業後、東京・池袋の「文芸坐」から始まった。結婚後に地元名古屋に戻り、ビデオカメラの営業をしていた頃、「名古屋で映画館をつくりたい」と考えていた若松孝二監督から声がかかったという。そして、初代支配人となった。

シネマスコーレは1983年、51席の小さな映画館として開館。当初は名画座からスタートしたが、1986年にミニシアターに転換。以来、アート系からアジア映画、インディペンデント作品まで幅広く紹介し、名古屋の映画文化を象徴する存在となった。
2023年の40周年を機に木全氏は代表に就任し、坪井氏が新たな支配人となった。世代を超えたタッグで、映画文化の継承に努めている。
映画というメディアへの信念
書籍が数日かけて世界を教えてくれるとしたら、映画は2時間で人生を覗かせてくれる。木全氏は「映画は人間の本質を垣間見る大切な媒体」だと考えている。
「映画館は、この世でもっとも楽しい世界の縮図です。座っているだけで社会や人々の想いを知ることができます。映画は人類が生み出した最も有効なメディアだと思います」

現代はSNSや配信サービスなど、短時間で刺激を得られるコンテンツがあふれる時代だ。しかし、木全氏は「刺激だけでは心が鈍化し、根源的な欲望を満たされない」と警鐘を鳴らす。
また、「映画は他者との関係性を学ぶ場」であるとも語る。文字情報の少ない映画において、俳優の表情や沈黙の間から感情を読み取ることは、観る人のコミュニケーション能力を育んでくれる。だが木全氏は「映画から深いところを読み取れない人が増えている」と現代の人々の在り方を危惧し、「今のままでは危ない。どこかで戻さなければ」と表情を引き締めた。
次世代の映画人の育成
現場で学べるスコーレ映画塾
木全氏が今、特に力を入れているのが次世代の育成だ。その中心となっているのがシネマスコーレが主催する「スコーレ映画塾」である。映画の「観る・作る・批評する」という三原則を軸に、現場で実践しながら学べる場所を提供している。

2025年10月生募集中のチラシ。次回は2026年4月生を募集
この映画塾は、2007年から2020年までNHKカルチャーで続いた講座が原点にある。コロナ禍を経て自社主催として再始動したもので、長年NHKカルチャーに通っていた受講生が、現在はスコーレ映画塾の講師を務めている。塾生は10代から70代まで幅広い世代が在籍。「年齢は関係ありません。やる気があれば誰でも映画を学べます」と木全氏は語る。
ユニークな映画制作カリキュラム
スコーレ映画塾には、「映画制作6カ月・1年コース」「映画撮影6カ月コース」「映画俳優4カ月コース」の3種類がある。さらに受講生には「シネマスコーレの映画をいつでも1,000円で見られる」「制作した映画はシネマスコーレで上映できる」などの特典も用意されている。
なかでも、一番人気の「映画制作6カ月・1年コース」のカリキュラムはユニークだ。多くの塾生が「監督になりたい」という思いを持って参加するが、このコースでは全員で1本の映画を撮るのが特徴で、監督、脚本、撮影、録音、俳優など、各自がさまざまな役割を担う。
まずは木全氏がテーマを決め、全員参加でプロットの大プレゼンテーションを開催。上位3名の脚本による“監督争奪戦”がおこなわれ、監督になれるのは一人だけ。俳優は監督が指名し、ほかの役割も分担する。
シネマスコーレが40年以上愛され続ける理由
経営面や収益面での課題
ミニシアターの運営は容易ではない。リーマンショックの際には観客が3割減少し、コロナ禍でも休館を余儀なくされたシアターも少なくない。2022年に制作・公開されたドキュメンタリー映画『シネマスコーレを解剖する』によると、シネマスコーレのフィルム代を除く月間経費は175万円。一週間で平均500人来ていた観客が、コロナ以降は400人に満たない週もあるという。
「今は配信サービスとの闘い」と語る木全氏。それでも「闘うことには慣れています。テレビやレンタルビデオの時代も乗り越えてきたので、今回も乗り切る自信はあります」と前を向いている。

2024年には、シネマスコーレ誕生を描いた映画『青春ジャック~止められるか、俺たちを2』が公開された。監督の井上淳一氏によると、木全氏は「悩まず、怒らない」人物だという。
作品でも、登場人物がみな葛藤するなか、木全氏だけは悩まず、どんな時も周囲を穏やかに包み込む存在として描かれている。そうした木全氏の「ゆるさ」こそが、逆境に強い力なのかもしれない。
名古屋駅西 ― 地域とともに歩む劇場
シネマスコーレが建つ名古屋駅西口は、かつては「駅裏」と呼ばれ、風俗店が立ち並ぶ雑多なエリアであった。同館が入るビルの2階から上もかつては風俗店で埋められていた。再開発が進んだ今も、下町や市場の名残があり、エネルギーに満ちた独自のおもしろさが残る。
「40年以上続けて来られたのは、時代と合っていたから」と木全氏は語る。中国、香港、韓国、インドなどアジアの国々の発展とシネマスコーレの黎明期が見事に重なった結果だという。
現在ではプログラム編成の8割を坪井氏が担当し、木全氏は2割を担当。坪井氏の個性的な企画や取り組みが若い世代に広がり、観客の年齢層も広がっている。そして、2026年には韓国映画の配給も控えている。
シネマスコーレがある限り、名古屋の映画文化の灯が消えることはないだろう。

木全純治氏プロフィール
愛知県出身。シネマスコーレ代表
1973年:同志社大学文学部卒業後、池袋の「文芸座」に入社し、日本映画を担当
1983年:映画監督・若松孝二氏の誘いを受けて、シネマスコーレの支配人に就任
当初は名画座として出発し、1986年から日本のインディペンデント映画や、中国、韓国、香港映画を上映
2023年:シネマスコーレ開館40周年を機に坪井篤史氏に支配人の座を譲り、代表取締役に就任。40周年記念映画『青春ジャック 止められるか、俺たちを2』を製作











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