第4回ライティングコンテスト佳作

デート先のカフェの座席で彼氏がコートを脱いだ時、その色白な腕に見慣れない電子機器があるのに気づいた。いつもの革時計よりも無骨で、近未来的なフォルム。

「あ、スマートウォッチ買ったの?」
「ダイエット用にね」

新しいもの好きの恋人は、こういう珍しいデバイスを買い集めている。研究生活の間に運動不足で五キロも太ってしまった彼。こういうハイテクに頼る前に、ちゃんと自分で食事制限なり運動なりをすればいいのに、とちょっと思ったが、怒られそうなので黙っておく。

「どんな感じ?」
「正直、ランニング用の腕時計でもよかったかな。スマホの機能は要らないかも」
 頼んだコーヒーを彼は啜った。

「スマホの何が偉大って、今までパソコンでしか行えなかったことが“どこでもいつでも”できるようになったってことだと思うんだよな。小型化しただけとは言っても、それはもう使い方に質的な変化を伴ってる。でも、パソコンからスマホへの拡張と比べて、スマホから腕時計への拡張はいまいちインパクトが無い。せいぜい心拍もモニタできるよってことくらいしか」

「心拍測れるの、便利じゃん」
「でもスマホと心拍計を統合しただけだろ。劇的になにか生活が変わったわけではない」

なるほどね、とだけ返事をして、私はパソコンの画面を開く。彼に難しい議論で勝てたためしがないし、なにより修士論文の提出が一月末なのだ。今日のデートだってもっぱら作業をする予定だった。

私も彼も、国立大学の修士2年生だ。修士というのは、学部の後に続く教育課程のことで、修士生はもっぱら授業ではなく研究でもって自らの学問を深めていく。修士2年生は研究生活の最後に、2年間の集大成として、修士論文と呼ばれるレポートを提出せねばならない。特に私の所属する学部は、修士論文を英語で書けという要件を出しているので、書きあげるだけでも至難の業だ。

Wordファイルとエクスプローラーを立ち上げ、スクリーンを二分割する。今日は論文の研究手法部分を加筆する予定だった。

最初に、Perplexityと呼ばれる生成AIでざっと参考文献を調べ、この章で書くべき内容を固めていく。Perplexityは文献付きで回答を示してくれるので、学術的なネット検索に持ってこいのツールだ。

次に、Perplexityで得た知識を下敷きに日本語で自分の主張を書きなぐってから、元祖生成AI・ChatGPTに下書きを流し込む。どうせChatGPTが整った文章にしてくれるのだから、日本語的にちょっと文章がおかしくたっていい。しばらく待つと、かっちりとパラグラフライティングされた英文が小川の水のように画面上から流れてくる。

後はそれを翻訳AIツール・DeepLで日本語に訳し直し、AIが勝手に内容を歪曲させていないかをチェックする。少々の修正を加えてから、DeepLの兄弟ツール・DeepLWriteで校正を行い、Wordの原稿に貼り付ける。

学部の卒論執筆の頃にリリースされていたDeepLにも随分お世話になったものだが、PerplexityとChatGPTの利便性には桁違いのものがある。なにしろこの2つは、日本語を英語に出力するだけではなく、その文章を論文として自然な形に自動で手直ししてくれるのだ。

DeepLもAI学習を積んでいて、かなりなめらかな英文に訳してくれるものの、論文向けの文章へカスタマイズしたり、文章の順番を組み替えて分かりやすく直してくれたりといったことはしてくれない。証拠に、卒論をDeepLで書いた時には教授に「日本語の原稿の直訳のようで不自然です」と言われて、手直しには苦労した。
学生のみならず、多くの研究者にとって、英語というのは大きな障壁となる。

海外の超一流大学・バークレー校で行われた研究によれば、英語での論文執筆は母国語よりも12日以上多くかかる。そして研究者の約半数は、英語の文法を理由に論文を却下された経験を持つ。研究世界における主役の言語は英語だ。どんなに内容が素晴らしくとも英語で書かれていなければ誰の目にも止まらない。

そんな中で生成AIの登場は、研究界にそびえたつ言語の壁を半融させた。ChatGPTを初めとする生成AIは、恐らく今後の研究者界隈の勢力図を大きく変える。翻訳AI登場時から既に始まっていた言語の壁の崩壊を、生成AIが決定的なものにしたと見ていい。しかも、生成AIは翻訳AIの単なる拡張ではなく、質的な変化を伴う。それこそスマホの登場と同じで。

スマホはいわば「持ち運べるパソコン」だが、それは単なる拡張ではない。質的な変化を伴う“どこでもいつでも”ネットと自分達を繋げるデバイスによって、私達は目的地に着くまでに地図を印刷しておくことも必要なくなったし、デート先でお勧めのレストランを知らずに慌てることもなくなった。私達のネット生活は時間と場所のくびきから解放された。

スマホとパソコンの違いが「持ち運べるか」だとすれば、翻訳AIと生成AIの違いは、「元の文章の意味は保存しながらも、英語論文に最適化された英文へと手直ししてくれるかどうか」だ。

例えば英語論文には、章タイトルの先頭に、「A」だの「The」だのを使ってはいけないという、暗黙のルールが存在する。「The background of the research(研究の背景)」は「Background of the research」となるわけだ。翻訳AIを使っていてはこのミスに気付くことができないが、生成AIには論文のいろはがインプットされているわけだから、こういう文法以外の間違いも防ぐことができる。

これまで英語に苦労していた研究者達の作業は劇的に簡単になる。彼らが英語論文を書く時、自分の母国語でまず原稿を書き、その後にAIに翻訳させればいい。論文を書く時だけではない、論文を読む時もそうだ。タイトルを理解するだけでも一苦労な英語論文のPDFを生成AIにアップロードすれば、すぐに内容を理解して、私母国語で解りやすく要点だけを説明してくれる。要点を飲み込んだ後は、従来の翻訳AIで細かいところを理解していけばいい。

言語学といった特殊な分野を除いては、私達研究者にとって、「言語の壁」というのは研究の本質からはあくまで離れたところにある。「この文章には”a”か”the”のどちらが正しいんだろう」だなんて悩む暇があったら、難解な物理計算であったり、複雑な実験系の設計であったりに時間を割きたいというのが正直なところだ。翻訳AIは母国語の文章を英語にする作業は手伝ってくれるけど、「翻訳された英文を英語論文として自然な構文へ直す作業」は人間が自力でやるしかなかった。生成AIはこの残された作業すら、人間の代わりに行ってくれる。

生成AIはフェイク情報を混ぜてきたり、元の文章から勝手に意味を捻じ曲げたりすることもので、自分で内容が正しいかどうか一通り目を通す必要はある。でも逆を言えば、「内容のチェック」だけで済む。内容はいざ知らず、英文はすでにかなり自然なレベルまで仕上がっているからだ。

生成AIは、研究者達を言葉のくびきから解き放つだろう。あらゆる情報が共有され、しかもそれは個人にとって分かりやすく最適化された形で私達の手元に届くだろう。あらゆる情報を私達は「本当の意味で」世界に対して発信することができるようになるだろう。何故なら、私達は今や自分の持つ知見を、人類の共通言語に容易に翻訳することができるようになったから。

この変化は既に大きく拡がりを見せている。私達は今後非英語圏から発信される論文の数に、大学教授の国籍に、変化を読み取ることができるだろう。研究者達の間にあった見えない差別・ハンディキャップを、生成AIは溶かすことができるから。

ライター:丸井直角

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