このエピソードを書くために、絵日記を紐解いた。目当ての記事は、2008年9月29日塘沽港(天津)で燕京号に乗り、神戸港に着くまでに起こった出来事である。

乗船前の待合室は各種団体や見送りの方々で、ごった返していた。個人旅行者はごくわずかだった。その一人である老紳士が、こちらも一人なので日本人だろうと見当をつけ、話しかけてきた。ポツポツと話をうかがうと、西宮にお住まいで、毎月この船で往復しているのだという。出国手続きも相前後して並び、話を続けながら乗船した。

船は船倉に荷を積むため、まだ停泊していた。研修生の男性たちが、デッキで家族との別れを惜しんでいた。陸にいるのは若い女性が多く、中には赤ん坊を抱いている人もいた。

船に乗ってしまえば、あとは寝ていても神戸に着くので、時間を気にせずに自由に過ごせる。ロビーで自己紹介がてら、今回の旅行の目的や、日本での生活などについて西宮老紳士に話した。中国語の習得については、バックパッカーで中国どこでも行けるくらいだということを非常に褒めていただいた。

船が動き出すと、研修生たちもデッキから戻ってきた。そのうち数人が日本語の教科書を開いて勉強を始めた。しばらくして、私と西宮老紳士が日本語で話しているのに気づいた一人が、そばに寄ってきた。

その研修生の若者が、西宮老紳士に「これは何という意味ですか?」と問いかけた。若者が持ってきた教科書は初級レベルだったが、ほかの研修生たちよりは少し難しい文法を勉強しているようだった。西宮老紳士が苦戦していたので、代わりに教えてあげた。

当時、私は外国人向け日本語教室のボランティアチューターを始めたばかりだった。外国人にもわかりやすく、実践的に教えることを心がけていた。その時も、身振り手振り、感情表現を交えて、日本語文法を説明した。となりにいた西宮老紳士が驚いた様子で、私を見ていた。

数人に取り囲まれての質問の嵐が途切れた時、西宮老紳士が「あなた、教え方お上手ですね」と言った。日本語を教えていることは話したつもりだったが、頭になかったようだった。私は「日本語教室でボランティアをしています」と控えめに言った。西宮老紳士は研修生にもわかるように「この人は日語老師です」と、やや大きな声で言った。その瞬間、研修生たちの視線が一気に私に集まった。

一番初めに声をかけてきた若者が「先生、日本語を教えてください」と言うと、後から来た10人ほどの熱心な若者たちも「おねがいします」と言った。私は断る理由もなかったので、引き受けることにした。そして、西宮老紳士にもお付き合いいただくことにした。その日は、そこから約6時間、夕食時間まで勉強会をした。

船旅の2日目は外洋を進んでいく。この時は接近中の台風の影響があって、海がかなり荒れていた。そのため、ロビーに出てくる人は少なく、日本語を勉強しに来る若者も少なかった。

昨日、最初に話しかけてきた研修生は山東省の海沿いの街の出身で、実家は漁師だという。だから、海には慣れているようで、すこぶる元気だった。山東漁師君は部屋でも勉強していたのか、昨日よりもはるかにレベルアップしていた。とうとう山東漁師君だけが残って、西宮老紳士と私、ロビーは3人だけになった。

山東漁師君が西宮老紳士に質問を始めた。年をとってから外国を一人で旅行するのが不思議だったようだ。はじめ山東漁師君と西宮老紳士は直接話していたが、お互いに通じない言葉が増えてきたので、成り行き上、私が通訳することになった。西宮老紳士の中国一人旅には、深いわけがあった。

西宮老紳士は、恩返ししたいから中国へ旅行するのだと語りだした。それは、命を救われた恩なのだという。第二次世界大戦の末期、日本は国家総動員法の下で厳しい統制が敷かれていた。食糧不足、軍需工場での重労働、日々の生活もままならないほど、日本国民は疲弊していた。

そんな中、西宮老紳士はご飯が食べられるからという理由で、兵隊に志願したのだという。栄養失調でやせ細った青年だったが徴兵検査に合格し、中国戦線に動員された。大した訓練も受けずに、船に乗せられて上海に上陸した。

訓練どころか装備もなく、家から出てきたままのボロをまとい、穴のあいた靴で、隊列の最後尾にくっついて歩いていた。南京政府支援を名目とした連隊は、先頭の将校こそ馬に乗って軍服をまとっていたが、それ以下はまともな軍服を着ている者などいなかった。

やせ細った青年だった西宮老紳士からは、遥か遠い隊列の先頭は見ることもできなかった。隊列は南京へと向かったが、食糧不足はここにも及んでいたそうである。食糧は上層部のみに配給され、配膳係の目の前で消費されていく。一兵卒の口に入ることは決してなかった。

衛生的な水も入手困難で、川の水をそのまま飲むため、ほとんどの兵隊が腹を下していたそうである。それでも西宮老紳士は、最後尾に必死にくっついて行軍したという。置いていかれたら日本に帰るあてもなくなるどころか、そのまま行き倒れになるしかなかったのだ。このような苦しい軍隊経験を語っているのだが、西宮老紳士の口調は爽やかだった。西宮老紳士は、行軍中に現地の人々に助けられたのだと言った。

道端の草を引っこ抜いて食べていたら、畑にいた人が大根をくれた。水の代わりと言ってスイカを持たせてくれた。穴の開いた靴を見て長靴をくれた。腹下しで苦しんでいたら、屋内に寝かせて休ませてくれた。薬を飲ませてくれた。汚れた下着を洗ってくれた。穴が開いた服に継ぎを当ててくれた。米をめぐんでくれた。などなど…。

西宮老紳士の上海から南京までの行軍には、人々の優しさにあふれた、現地での素晴らしい思い出が詰まっていた。入隊したての何も知らずに行軍している、やせこけた若者の、日本でも味わうことのなかった人間の温かさの体験である。

10代だった西宮老紳士の命の恩人たちだって、楽な生活をしていたわけではないだろう。あの人たちは、もうこの世を去っているかもしれないが、生かしてもらった恩は何ものにもかえがたいから、今も現地へ行って人々と交わり、食事し、観光し、宿泊するのだという。

私は歴史について一般人より知識があると思うが、当事者の経験はこの時はじめて聴いた。私がそうなのだから、当時の西宮老紳士とほぼ同じ年の山東漁師君は、なおさらショックだったようだ。話を聞いているうちにうつむき加減になり、何か悪いことをして叱られているような様子だった。

そして「ごめんなさい。日本語下手です、ごめんなさい。日本語できません、ごめんなさい」と言った。言葉にならずとも、山東漁師君の気持ちは十二分にわかった。西宮老紳士も「ごめん、ごめん。つまらない話、しちゃったね」と気遣っていた。世代の異なる3人は、1945年にタイムスリップしていた。

西宮老紳士は「内地も兵隊も食べるものが何にもないんだから、戦争なんかやってる場合じゃない。食糧を作らなくちゃ、負けるに決まってるよ」と言った。大義名分も果てしない夢も、命あればこそ輝く。

私は、日本語で困っている外国人を支援する道へと、背中を押された気がした。私を必要としている人がいる。私にしかできない援助がある。仕事をやめよう。ボランティア活動に専念する覚悟を決めた瞬間だった。

ライター名:登螢谷 茂璃

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