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渡る世間は『母』ばかり
- 2023/4/24
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大学卒業と同時に家を出た。二十七の春。それまで病気がちで休学していたがやっとこさ就職までこぎつけた。
「もうお母さん、嬉しい」
上京の朝。新幹線のホームで母が抱き寄せる。女手ひとつで、しかも病弱な私を育てるのは相当大変だったのだろう。私も感謝でいっぱいだった。
しかし、である。新大阪駅について驚いた。どういうわけか母がいる。
「のぞみで来ちゃった」
茶目っ気たっぷりに舌を出す。その表情を見てゾッとした。そう言えば母は今日から二週間有休を取った。だから。のぞみは唯一ひかりを追い越すらしい。だから。大阪に着いたらサプライズがあると言っていた。だから。
「もしかしてウチに来るつもり?」
母はもちろん、とばかりにニッコリ笑った。私はガックリ肩を落とした。アパートに着くと早速ご近所さんへ挨拶まわりをすることになった。そこでもまた母の過保護っぷりが炸裂する。
「この子は大学一年の秋に悪性リンパ腫にかかって……」
そう言って差し出すA4のコピー用紙。見れば私の病歴が記されている。こんなものをいつの間に。
「今後も何があるかわかりません。少しでも様子がおかしかったらすぐに連絡を下さい」
先方は戸惑い、戸惑った末に「わ、わかりました」と用紙を受け取った。
「ちょっと恥ずかしいからやめてよ。もう病気は治ってるんだから」
私が制止しようとすると母は鋭い目つきでこちらを睨んだ。『あなたのため』とは言わないまでも言いたそうな素振り。私も思わず口をつぐんだ。
その後も母の勢いは留まるところを知らない。初出社の日にはわざわざ社長宛にあいさつの電話をかけ「残業は月に十時間まで」と注文をつける。お昼には出来立ての弁当を届けに来ては一緒に食べる始末。おかげで憧れのオフィスランチはおろか、オフィスラブすらない。
「お母さん。もう帰ってよ」
「まだあと三日はいるわよ」
どうしても私が気になって仕方ないのだろう。甘いはずの昆布巻が苦くなった。そしてついに帰京の日。その日は朝から母がキッチンにいた。
「しばらくこっちに来られないから作り置きを、ね」
「はあ……」
「半年分の昆布巻」
「ひい!」
「あ、ちがう半月分だ」
「ふう」
「あとこれはご近所さんの、ね」
「へっ!!!」
「でも今回はやめておこうかしら」
「ほっ……」
もはや相槌だけでハ行が制覇できそうだ。いやはや母のお節介ぶりには腰を抜かしてしまう。結局冷凍庫は作り置きでいっぱいになった。
母が帰ってからというもの、平穏な日々が戻りつつあるように思えた。冷凍庫の作り置きが徐々に減り、代わりに冷凍食品のハンバーグやパスタが場所を取る。お昼は社食で済ませ、仲間らと談笑する。そんなひとときが宝のような時間。母がいなくなって良かったとは決して言ってはならないが、母がいない方が平和なのは事実。
しかし、である。ある日の勤務中。私はなぜか上司に呼び出しを食らう。どうやら家づくりを検討しているお客様が私を担当に指名してきたらしい。だが顧客名簿を見て目を疑った。
母だ。
まさかとどうしてが入り交じる。慌てて母に確認をすると「そうだ」と白状した。
「せっかく大手のハウスメーカーに就職したんだから。一花咲かせてやろうと思ってね。それにあなただって打ち合わせのたびに里帰りができるんだから一石二鳥じゃない」
もう開いた口が塞がらない。よりによって最初のお客様が母だとは。だが頭金はどうする。いまの家だってまだローンが残っているはず。「それでもいい」と母は言う。それどころか早く打ち合わせの日を決めてくれと急かす。こっちは時間がないんだ、とも。私はこのとき母が急かす意味がよくわからなかった。だが一ヶ月もするとその謎が解けた。
「ローンの審査が通らない?」
思わず直属の上司に聞き返した。どうやら疾患があり、そのせいでローンが通らないという。だがその疾患名を聞いて驚いた。
ステージⅣの乳がん。母が家づくりを急かす理由。そこには筆舌に尽くしがたい残酷な運命が隠されていた。
「残念ながらこのような疾患があると返済が見込めないため、ローンを組むことができません」
上司は母を説得するように言った。私もまっすぐ母を見た。本当は「なんでもっと早く教えてくれなかったんだ、まったくもう」って言ってやりたかった。だけど肩をすぼめる母を見たら何も言えなくなった。本当はもっと生きたかったはず。きっと私の成長を見守りたかった。きっと、誰よりも、本当は。
「お母さん。私、会社辞めるわ」
言葉に決意が滲み出た。それからというもの、めっきり母とふたりきりの生活になった。母は終活の傍ら、私の婚活に口を出す。マッチングアプリに登録すれば早速男性たちの品定めを行い、週末は親同士で行う『代理お見合い』にも参加する。もはやどちらが結婚するのかわからないほどの熱の入りようだ。
それでも一年後。私に婚約が決まると同時に母はこの世を去った。最期は朗らかで、どこか安心したような表情。そんな母を見ながらこの母のもとに生まれてきて良かったと心から思った。すごく過保護で『渡る世間は母ばかり』だったけれど、幸せ。今ではもう食べることができないのかと思うとあの日残した昆布巻すら愛おしい。
そんな母に伝えたい。
ねえ、母さん。
いっぱい心配してくれて、愛してくれてありがとう。
今さら気づいたの。
母さんは過保護なんかじゃない。『超』過保護だって!
でもそんなあなたは親として最高で最強。
この先もきっと忘れることはないでしょう。
ライター名:むらかみゆみ