ライティングコンテスト佳作

29歳のときに大学院留学のために初めてイギリスに渡ったのだが、最初の数週間はカルチャーショックの毎日だった。キャンパスではカップルが白昼堂々キスしまくりだし、男女共同の寮にはコンドームの自販機が設置してあるし、大学教授は教壇の上であぐらをかいたまま講義をするし、大学生は昼休みに平気でビールを飲むし、ポルノ雑誌を買ってみたら「女性そのもの」がカメラに向かって全力投球しているし…。

でも、そんなことは見て見ぬふりをしておけばだんだんと慣れてくるものではある。ただ、そんな中で1つだけ困り果ててしまうことがあった。それはイギリスの家庭では風呂とトイレが同じ部屋にあることだった。こういう構造だと、「小」がしたくなってもだれかが風呂に入っていたら、その人が出るのを待たなければならないのだ。僕は3人家族のイギリス人家庭にホームステイしていたから、その3人のだれかが風呂に入っているときに「小」がしたくなったら、その人が風呂から出るのを待たなければならなかった。

おかみさんはそんな僕の「小」の事情などおかまいなしに1時間近く風呂で費やすことがあったから、事前に「小」をしそびれると我慢するのが大変だった。近くに公衆トイレなどまったくなかったし、だからといって立ちションするわけにもいかなかったので、残された選択肢は我慢することしかなかったのだ。

そんなある日のこと、とうとう僕は「小」を我慢しきれなくなった。苦肉の策として僕は自分の部屋にあったプラスチック容器に「小」をした。と、その瞬間、閃いたのだ。
(そうか、おかみさんが風呂から出たあとにこれを便器に捨てに行けばいいだけの話だな。なんだ、こんな簡単な解決方法があったのか)こうして僕は自分の名案をしみじみと喜んだものだった。

ところが、おかみさんはなかなか風呂から出てこなかった。しびれを切らした僕はふと良からぬことを思い巡らしてしまった。もし「あとで捨てに行こう」と思っていて、ついうっかり捨てに行くのを忘れてしまったらどうなるだろうか。もしおかみさんが僕の部屋の中に「小」入りのプラスチック容器があるのを発見したら僕のことを何と思うか(女将さんは清掃をしに僕の部屋に入ることがあるのだ)

よし、こうなったらこれしかない。僕は、屋根裏部屋である僕の部屋の窓から屋根に向かって「小」をジャージャーと流してやった。僕はスッキリした。これでいいのだ。1つしかトイレがないのに、ゆっくり風呂に入っているほうが悪いのだ。赤の他人をホームステイさせているわけだから、その人が「小」を我慢している可能性もあることを考慮すべきなのに、それを怠るのはとがめられるべき一種の「不作為」なのだ。

その後僕はこういうことを数度繰り返した。「一度やってみて不都合なことがなにも起らなかった」というのはじつに誘惑的だ。人間はこういうとき、同じ過ちを繰り返しやすい。しかし僕は屋根がどういう状態になっているかまったく思いを馳せなかった。「ま、乾いたら元通りになるだろうよ」とタカをくくっていたのだ。

ところがそんなある日、僕の屋根裏部屋の窓から屋根を見渡してみると、僕が「小」を捨てていたところが道状にテカテカ光っているではないか。水なら乾いたら元通りになるだろうが、「小」はそうならなかったのである。

僕はそれを知った瞬間、ある日ふと鏡を覗いたら狼男になっているのに気づいた男が感じる戦慄を体全身に覚えた。僕の屋根裏部屋につづく屋根は少し離れたところからは丸見えなのだ。まったく誤魔化しようがないのだ。僕の心は取り返しのつかない後悔心で真っ黒になった。

今のところおかみさんは気づいていないようだが、見つかるのも時間の問題だ。きっと気づくやいなや「あんた、一体、何を流したの?」と怒鳴り込んでくるはずだ。気性の激しい人だから妥協というものはまずない。まさか「小」を流したともいえないし。何を流したって言えばいいんだよ!

もし「小」を流したことがバレてしまって追い出されでもしたら、留学資金ギリギリで来た僕は留学そのものが終わってしまう。こんなことで大学院を中退しなけりゃならないなんて…。ああ、なんでイギリスのトイレは風呂と一緒の部屋にあるんだよ!

関連記事

コメントは利用できません。

最近のおすすめ記事

  1. 「愛着理論 子どもの発達と愛着形成」ライター:秋谷進(東京西徳洲会病院小児医療センター)
    日々の子育てやお子さんの将来について、漠然と不安を抱えていませんか?お子さんの健やかな成長を支える上…
  2. 1月28日、「京都アニメーション」放火事件の青葉真司被告(46)が控訴を取り下げ、死刑が確定しました…
  3. 「子どもの発達に欠かせない 音楽療法 と 音楽療法士」ライター:秋谷進(東京西徳洲会病院小児医療センター)
    近年、医療や教育の現場で注目を集めている「音楽療法」。 これは、音楽の力を活用して心身の健康を促進す…

おすすめ記事

  1. 東京報道新聞が取材した青森刑務所でムショ飯の献立を考える管理栄養士さん

    2024-1-29

    刑務所の食事ってどんなもの?青森刑務所の管理栄養士に聞く令和の「ムショ飯」

    刑務所の中の食事というと、”臭い飯”というイメージを持っていた人もいるかもしれませんが、最近では「務…
  2. 2024-7-9

    「2024年版 世界で最も知的な国」ランキングで日本が1位、世界平均を大きく上回る

    フィンランドの知能テスト機関「Wiqtcom(ウィクトコム)」が発表した「2024年版 世界で最も知…
  3. 刑務所看護師の仕事内容について東京報道新聞のインタビューを受ける宮城刑務所の看護師現場の実態

    2024-10-29

    刑務所看護師ってどんな仕事?宮城刑務所の看護師に聞く現場の実態

    刑務所内では、受刑者の健康管理を行うために、看護業務を担う刑務所看護師が常駐しています。なかでも宮城…

2024年度矯正展まとめ

矯正展の2024年度開催スケジュールまとめ

【結果】コンテスト

東京報道新聞第5回ライティングコンテスト_結果発表

インタビュー

  1. 取材時に撮影したYOSHIの写真
    テレビ番組やYouTubeに出演するタレントで、マジシャンのYOSHIは、芸能事務所・44プロダクシ…
  2. 宮城刑務所の「機能向上作業」の取り組みについて東京報道新聞がインタビューした作業療法士さん
    刑務所での認知機能改善への取り組みとして、現在全国で10人以上の作業療法士が刑務所に常勤し、受刑者の…
  3. 宮城刑務所の矯正医療について東京報道新聞がインタビューした矯正医官(お医者さん)
    服役中の受刑者が体調を崩したり病気にかかったりしたときに診察するのが、刑務所で勤務する医師である「矯…

アーカイブ

ページ上部へ戻る