ライティングコンテスト佳作

夫となる男性は、サラリーマンだった。かたや自営業の飲食店で育った私は、四十路での初婚。おまけに彼は六歳年下だ。人生、どんな出会いがあるか解らぬものである。十年ほど昔の事、少々レアケースなカップルの新婚生活が始まろうとしていた。

「家事に於いては第一にワイシャツの管理を怠らぬこと」入籍前、本家の従兄からいただいた箴言だった。私に一人暮らしの経験はない。それでも洗濯くらい出来ますわよと、内心思いつつ神妙に聞き入った。

従兄の話はこうだ。ワイシャツをクリーニングに出さず家庭の洗濯機で洗う場合、脱水は極力控えること。端を摘んで軽く引っ張る、パンと掌で挟んで叩くなどして整形し、陰干しすること。糊を効かせたアイロン掛けで、パリッと仕上げること、云々。

銀行員だった従兄の経験から出る言葉には、アイロン相当の重みがあった。気前の良いご祝儀の他に、コードレスアイロンの現物も贈ってくれた。ワイシャツに対する、従兄のなみなみならぬ思いが伝わってくる。

スーツ姿で日々仕事に励むホワイトカラーの夫には、皺のないワイシャツを着て欲しい。夫婦共働きになるが、家事分担では時短労働の私が洗濯を担う。一丁やってみるか。結婚式は挙げなかったが、花嫁衣装で腕まくりする様な気合いで、私は新生活に臨んだ。

独身時代、アイロン掛けは自分なりにしていたつもりだ。どんなに忙しくても自分のデート着の手入れだけは惜しまない。見栄っ張りな乙女心の持ち主だった。

しかし相手が夫のワイシャツとなると、勝手が違った。大き過ぎる。彼は日本の成人男性として、標準的な体格だ。衣服で男女のサイズの違いを実感した。ワイシャツは、袖も身頃も前縦も、新生活用に購入したアイロン台に収まらない。台の上でワイシャツをずらしながらのアイロン掛けは、体力仕事だった。

糊の使用は、洗濯機での濯ぎ時投入、アイロン時のスプレー噴霧の両方を試してみた。どちらも思うように生地に糊がのらない。そもそも私がそれまでアイロンを掛けてきたのは、テロテロの化繊ブラウスなどが中心だった。糊を使用してアイロン掛けするのはホテルのリネン類、くらいの認識だったのだ。

勇気ある撤退。初めての結婚記念日を待たずに、ワイシャツのアイロン掛けの苦痛を夫に訴えた。夫婦は解決に向けて、建設的な協議に入る。導かれたのは、クリーニングに出す、または皺なく乾くノーアイロンの製品に買い換える、の二択だった。両方実証し、比較検討した。結果、ノーアイロンワイシャツへの全面的な切り替えが採択された。

無論、南極探検隊での生命を尊重した決断とは比較にならない。しかし、ワイシャツのアイロン掛けからの撤退を端緒に、私たちは問題解決の協働を成し遂げた。二人の関係は一歩も二歩も前進したのだ。夫婦にとっては、歴史的快挙だった。

ここで、告白しておきたい事がある。ワイシャツの襟には芯が入っている。カラーキーパー、カラーステイなどと呼ばれる。手の小指ほどの幅と長さのプラスチック製のシートだ。先端の形状は襟先に合わせ鋭角になっている。襟の裏側の挿入口から差し込み、着用時のシルエットを美しく立体的に保ってくれる。

それが洗濯中に抜けてしまう事がある。新婚当初、洗濯槽に残る透明な異物を理解出来ず、発見の都度廃棄していた。それほどまでに、ワイシャツとは縁のない人生だったのだ。

カラーキーパーはワイシャツ購入時、予備が付属している。ある時夫が襟に予備の芯を装着している様子を見て、ようやく異物の正体を理解した。以降、襟の芯が抜けた場合、定位置に装着し直すよう心掛けている。カラーキーパーに関しての情報を授けてくれなかった従兄を、決して恨んではいけない。

またある時、夫からワイシャツの脇の下の黄ばみを漂白してほしいと頼まれた。さて、どうしたものか。染みの部分に、台所で布巾の漂白に使っていた薬剤を塗布し、洗濯した。後日、帰宅直後の夫がワイシャツ姿で自身の腋の下を指し示し嘆く。脇の下には大きな裂け目が出来ていた。

その日の朝、ワイシャツに損傷は無かった。おそらく、動作で引っ張られるにつれて、塩素で脆くなっていた繊維が裂けたのだろう。無知の極みだ。事前に調べればわかる事であった。衣類の漂白剤なら、塩素系ではなく酸素系を選択すべきだと。夫には平に詫びて、そのワイシャツは廃棄となった。

その一方で、私は塩素のパワーに純粋に驚嘆した。目の前で夫が着ているワイシャツの脇の下の穴に、通気の機能性をも見出した。己の着眼点の馬鹿馬鹿しさが面白くてならない。笑いを必死で堪えた。今思い返しても、吹き出しそうになる。何たる薄情さ。私が非情な鬼嫁として覚醒した瞬間であった。角隠しを着けずに結婚したのだから、やむなしだ。

純白のワイシャツにまつわる黒歴史が、これ以上更新されないことを切に願っている。

ライター名:永山玲子

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